明石城は1619年(元和5年)に初代明石藩主小笠原忠政(後の忠真)によって築かれた城で、1957年(昭和32年)に巽櫓・坤櫓が国の重要文化財に指定され、 2004年(平成16年)には城跡(明石公園の一部)が国の史跡に指定されました。なお巽櫓・坤櫓は日本に12基しか現存していない貴重な三重櫓です。広範囲に残る堀や石垣も見どころで、2006年(平成18年)には、日本城郭協会による「日本100名城」に選定されました。
太鼓門跡
明石城の正門で西国街道(山陽道)に面していました。現在の明石公園の正面入口でもあります。当時はここに「太鼓門橋」と呼ばれる長さ十一間(約20m)、幅三間(約5.5m)の木製の欄干橋がかかり、正面に「定ノ門」と呼ばれる高麗門がありました。枡形虎口となっており、五間に八間の枡形を直角に曲がった先には「能ノ門」と呼ばれる櫓門がありました。「能ノ門」には、時刻を告げる大太鼓が備え付けられていて、この二つの門から成る枡形虎口全体は、「太鼓門」と呼ばれていました。また、「太鼓門」の南約300m(現在の国道2号の南付近)には、城内と町屋を区画する「外堀」が掘られ、そこに「追手門」を設けて城内への出入りを監視していました。
巽櫓
本丸の南東端に築かれた3重櫓で、船上城から移築されたと伝わっています(船上城の天守だった可能性も)。ただし1628年(寛永5年)または1631年(寛永8年)に焼失したため、現在ある櫓は再建されたものです。櫓の大きさは、桁行五間(9.03m)、梁間四間(7.88m)、高さ七間一寸(12.53m)、240トンで、各階の高さは3m弱となっています。阪神淡路大震災後は曳家工法を使って修復されました。
全国に現存する三重櫓
城名 | 櫓名(別名) | 高さ | 建築年 | 備考 |
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弘前城 | 丑寅櫓 | 11.92 | 1611年(慶長16年) | |
弘前城 | 辰巳櫓 | 11.87 | 1611年(慶長16年) | |
弘前城 | 未申櫓 | 11.98 | 1611年(慶長16年) | |
江戸城 | 富士見櫓 | 15.5 | 1659年(万治2年) | |
名古屋城 | 西北隅櫓(清洲櫓) | 16.3 | 1619年(元和5年) | |
彦根城 | 西の丸三重櫓 | 11 | 慶長年間 | |
明石城 | 坤櫓 | 13.28 | 1620年(元和6年) | 伏見城からの移築。その後再建 |
明石城 | 巽櫓 | 12.53 | 1620年(元和6年) | 船上城からの移築。その後再建 |
福山城 | 伏見櫓 | 13.5 | 1622年(元和8年) | 伏見城からの移築 |
高松城 | 月見櫓 | 1676年(延宝4年) | ||
高松城 | 艮櫓 | 11.5 | 1677年(延宝5年) | |
熊本城 | 宇土櫓 | 19.1 | 1601年〜1615年頃 |
坤櫓
伏見城から移築されたと伝わる、城内で最大規模の3重櫓です。天守が築かれなかった明石城では天守代用として使われました。櫓の大きさは、桁行六間(10.94m)、梁間五間(9.15m)、高さ七間二尺九寸(13.28m)、340トンで、各階の高さは3m強で、巽櫓よりひと回り大きくなっています。内部には、伏見城の部材と思われる木目のそろった松材が多く使われています。
両櫓のサイズ
坤櫓 | 巽櫓 | |
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桁行(東西) | 六間(10.94m) | 五間(9.03m) |
梁間(南北) | 五間(9.15m) | 四間(7.88m) |
高さ | 七間二尺九寸(13.28m) | 七間一寸(12.53m) |
重さ | 340トン | 240トン |
伏見城の遺構のおもな移築先
- 二条城天守(焼失)、行幸御殿唐門(のち豊国神社へ再移築され現存)
- 江戸城伏見櫓(現存)
- 福山城伏見櫓(現存)
そのほか膳所城、岸和田城、尼崎城にも移築されたが非現存。
天守台
東西25m、南北20m、約152坪という天守台は熊本城天守と同規模で、5重の天守が建築可能な大きさです。本丸からは3.6mの高さで、天守台にのぼる石段の一段目には、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎が使われています。(転用石)天守が築かれなかった理由については不明ですが、当時の主力兵器となった大砲の標的になりやすいためではないかとも考えられています。なお、中津城(大分県)の天守を移築するという計画があったようです。
明石城の石垣
明石城の高石垣は東西の幅が380m、三の丸からの高さが約20m(帯郭までが約5m、そこから約15m)の規模を誇ります。なお幕府が当初築いた部分は主に花崗岩、明石藩がのちに補強修復した部分は主に凝灰岩(竜山石)が使われていて、石垣の時期差を見ることができます。また、櫓台の出角部分はノミで稜線を尖らせる「江戸切」という手法が多く用いられ、石垣全体の美しさを際立たせています。算木積みの部分は角をノミで尖らせる江戸切が多用されています。
刻印の謎
刻印は、石垣工事の担当者を区別するための符号と考えられていて、名古屋城など幕府が譜大名に命じて築かせた天下普請の城では、工事を請け負った大名たちの家紋や名前が刻まれています。しかし、明石城では、大名家の家紋は見当たりません。これは、明石城の工事が幕府による町人普請であったためで、残された多くの刻印は、町人たち(民間企業)が使った符号と思われます。調査によれば、1445個・86種類の刻印が見つかっています。
阪神・淡路大震災による石垣の被害
阪神・淡路大震災では全体の19%が被害を受けましたが、かつて姫路城や大阪城などの石垣を修復した経験のある職人の手により見事に修復されました。なお櫓下の石垣を修復する際は国内の城郭建築では初となる曳家工法が用いられ、この実績は現在工事中の弘前城の修復工事などに大きく役立っています。
算木積み
石垣の出角部分(隅石)の積み方で、日本の築城技術が一気に飛躍した1605年(慶長10年)前後に用いられて以降、城郭の石垣のスタンダードになりました。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増しています。名前の由来となった「算木」とは、和算に使う道具で、易学の道具としても使われています。2016年(平成28年)の熊本地震で被災した熊本城飯田丸五階櫓では、櫓を支えた「奇跡の一本石垣」として算木積みが注目されました。