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トリビア

明石城のトリビアでは、「明石城の築城の経緯」や「宮本武蔵」にまつわる言い伝えをご紹介しています。明石城にまつわる話を知っていただくことで、多くの方々に明石城に興味関心を持っていただき明石城を訪れるきっかけになればと願っています。

明石城の築城経緯

もともと明石の地には高山右近も城主をつとめた船上城がありました。1600年(慶長5年)に起きた「関ケ原の戦い」後には姫路城主・池田輝政の支城となり、大坂城包囲網の一角をになっていました。1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡すると、江戸幕府は「一国一城令」を制定して船上城は破却されます。そして池田氏に代わり本多氏が姫路に入ると、時を同じくして信濃松本から小笠原忠政(後の忠真)が明石に入封します。依然として福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名は健在であったため、彼ら西国大名から姫路城や尼崎城とともに京・大坂を防衛するために2代将軍・徳川秀忠は新しい城を築くよう忠政(後の忠真)に命じました。そうして西国街道と明石海峡という水陸両方の交通の要衝に築城されたのが明石城なのです。

明石の町割りについて

明石の城下町の町割り(都市計画)は宮本武蔵が行ったと『播磨鑑』『明石記』などの資料で伝えられています。『明石記』は江戸時代、享保年間(1716年〜1736年)に成立した地誌で、そのなかで「宮本武蔵ト云士町割有之ト云町並裏行十六間也」と記載されています。
小笠原忠政(後の忠真)が城下町の工事に着手した1619年(元和5年)に宮本武蔵が町割りに関わったものと考えられています。今も奥行き十六間(約29m)の町屋があり魚の棚商店街は「東魚町」として築城当初からあった町で、現在の市街地にも町割りの跡が多く残っています。

武蔵の庭園

現在の明石公園陸上競技場にはかつて宮本武蔵が作庭した樹木屋敷がありました。 樹木屋敷とは山里曲輪に設けられた城主の遊興場所です。
明石藩初代藩主の小笠原家に伝わる『清流話』の記録によると主な施設として御茶屋(休憩所)、鞠の懸り(蹴鞠の場所)、築山・泉水・滝などがあったそうです。

また明石市内には宮本武蔵が作ったと伝わる庭園が本松寺、円珠院(善楽寺)にあります。いずれも枯池式枯山水庭園で、枯滝が大小2か所あり、池の形がひょうたん形をしているなどの共通点があります。同じく宮本武蔵作庭伝承のある雲晴寺では、発掘調査により護岸を伴う築山と池の一部や石橋が確認されました。