歴史
西暦(和暦) |
出来事 |
1617年(元和3年) |
7月、小笠原忠政が信濃松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1㎞のところにあった船上城(ふなげじょう)に入り、明石藩(現在の明石市東部、神戸市西区、神戸市垂水区、三木市、加東市の一部)が誕生 |
1618年(元和4年) |
2月、2代将軍・徳川秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、小笠原忠政に築城を命じる。忠政と岳父の本多忠政は築城の候補地として、塩屋・和坂・人丸山の3か所を選定し、その中から人丸山に絞り、将軍秀忠の裁決を得た。同時に宮本武藏によって町割図の作成 |
1619年(元和5年) |
正月から明石城の築城開始。幕府は普請費用として銀千貫(現代の約31億円に相当)を与え、3人の奉行を派遣した。正月から8月までは幕府による石垣、土塁、堀の普請(土木工事)がおこなわれ、9月からは明石藩による櫓、御殿、城門、塀などの作事(建築工事)がおこなわれた。本丸御殿は年末に完成し、忠政は船上城から移った |
1620年(元和6年) |
4月、本丸に4つの三重櫓が完成。明石町中の地子免除 |
1621年(元和7年) |
明石浜築港工事 |
1631年(寛永8年) |
1月22日夜10時、三の丸下屋敷台所より出火、本丸御殿などが焼失 |
1632年(寛永9年) |
10月2日、小笠原氏が豊前小倉へ転封となる。その後、半年ほど幕府の直轄地となる |
1633年(寛永10年) |
4月9日、松平康直が、7万石で入封 |
1634年(寛永11年) |
松平光重が、7万石で入封 |
1639年(寛永16年) |
大久保季任が、7万石で入封 |
1645年(正保2年) |
幕府の命により明石城下の絵図を作成(正保城絵図) |
1649年(慶安2年) |
7月26日、松平忠国が丹波篠山から7万石で入封 |
1657年(明暦3年) |
林崎掘割(用水路)許可 |
1659年(万治2年) |
松平信之が藩主となる。7万石のうち5千石を弟・信重に分知 |
1660年(万治3年) |
鳥羽新田開墾 |
1671年(寛文11年) |
松平信之、林崎掘割を完成させる |
1679年(延宝7年) |
本多政利が、6万石で入封 |
1682年(天和2年) |
松平直明が越前大野から6万石で入封。以後、松平家が藩主を継ぐ |
1719年(享保4年) |
松平直常、梁田蛻巌(やなだぜいがん)を藩儒として招いて郷校「景徳館」を創設 |
1840年(天保11年) |
松平斉宜が、2万石加増され入封。10万石の格を許される |
1866年(慶応2年) |
明石藩、第二次長州征伐に出兵 |
1869年(明治2年) |
6月19日、松平直致、版籍奉還。明石藩知事に任じられる |
1873年(明治6年) |
廃城令により明石城が廃城。大蔵省所管となる |
1874年(明治7年) |
二の丸に飾磨県立有文中学校が開校 |
1875年(明治8年) |
明石城の各建物を民間に払い下げ |
1883年(明治16年) |
地元有志からなる「明石公園保存会」が国から借地し、民営明石公園として開設 |
1897年(明治30年) |
三の丸に県立農学校が開校 |
1898年(明治31年) |
10月5日、御料地編入により廃園、宮内省の管轄となる |
1918年(大正7年) |
4月、御料地の利用計画が立ち消えとなったため、兵庫県が宮内省から本丸付近10haを借り受け、県立明石公園として開園 |
1932年(昭和7年) |
3月、ほぼ現在の明石公園の区域に拡張して開園 |
1945年(昭和20年) |
6月26日、B29により公園および付近一帯に250キロ弾約60個が投下され、大きな被害を受ける |
1948年(昭和23年) |
第一野球場の改良工事、陸上競技場の新設工事、補助競技場の新設工事の着工 |
1957年(昭和32年) |
6月、坤櫓、巽櫓が国重要文化財に指定 |
1973年(昭和48年) |
7月、公園内に兵庫県立図書館、明石市立図書館の建設着工 |
1982年(昭和57年) |
両櫓の補修工事(翌年3月に竣工) |
1995年(平成7年) |
1月17日に起きた阪神淡路大震災の影響で石垣の1/8が崩壊、孕み。櫓は軸部、壁に被害を受ける |
2000年(平成12年) |
櫓の修復工事完了。両櫓の間の土塀も復元された |
2004年(平成16年) |
明石公園が国の史跡に指定 |
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