藩主年表
西暦(和暦) | 藩主 | 詳細 | |
---|---|---|---|
1617年(元和3年) | 小笠原忠政(忠真) ただまさ(ただざね) |
小笠原家 |
初代明石藩主。小笠原秀政の子。1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で父と長兄・忠脩が戦死したため、家督を継ぐことになる。信濃松本8万石を領し、忠脩の未亡人である五姫を正室とした。1617年(元和3年)7月、明石に国替えとなり、明石藩が立藩した。徳川秀忠の命により、明石城を築城。さらに城下町や明石港を整備した。 |
1633年(寛永10年) | 松平康直 やすなお |
戸田松平家 |
松平康長の三男。1632年(寛永9年)12月に父の死去に伴い家督を相続すると、翌年明石に移封された。しかしその翌年、江戸から上洛途中の東海道鈴鹿関で18歳の若さで急逝した。 |
1634年(寛永11年) | 松平光重 みつしげ |
松平忠光の長男。叔父の康直が跡継ぎのないまま死去したため本来であれば断絶となるところ、忠光や康直の父にあたる先代康長が家康・秀忠・家光の3代に厚い信任を受けていたこともあり、家督を継ぐことを許された。領内では鳥羽新田の開発を進めた。1639年(寛永16年)に美濃加納城へ移り、さらに1656年(明暦2年)には大坂城代となっている。 | |
1639年(寛永16年) | 大久保季任(忠職) すえとう(ただもと) |
大久保家 |
大久保忠隣の嫡孫にあたる。父・忠常の早世により7歳で家督を継ぎ、1614年(慶長19年)に忠隣が改易されると、大久保氏の存続こそ許されたものの騎西城での蟄居処分となっていた。1625年(寛永2年)にようやく罪を赦され、美濃加納藩へ加増移封となり、1639年(寛永16年)に明石藩へ加増移封となった。さらに1649年(慶安2年)には肥前唐津藩へ加増移封された。 |
1649年(慶安2年) | 松平忠国 ただくに |
藤井松平家 |
松平信吉の長男。父・信吉の跡を継いで丹波篠山5万石の藩主となると、1649年(慶安2年)に明石へ加増移封された。新田開発や掘割の開削などにあたった。 |
1659年(万治2年) | 松平信之 のぶゆき |
松平忠国の次男。兄・信久が夭折したため嫡子となり、1659年(万治2年)に父の死去により藩主となる。信之は好学の名君で、父と同じく新田開発・掘割開削に注力したり、柿本人麻呂を祀った人丸神社(柿本神社)を整備するなど明石の発展に貢献した。1679年(延宝7年)に大和郡山に移封となると、1685年(貞享2年)には老中に出世している。 | |
1679年(延宝7年) | 本多政利 まさとし |
本多家 |
本多政勝の次男。本多忠勝のひ孫にあたる。本多宗家の跡目争いである「九・六騒動」を引き起こす。1679年(延宝7年)に播磨明石へ移封となると、幕府から苛政をとがめられて奥州岩瀬1万石に減封となった。 |
1682年(天和2年) | 松平直明 なおあきら |
越前松平家 |
結城秀康のひ孫にあたる。1682年(天和2年)、越前大野から加増移封となると以後は明治まで越前松平氏が代々明石藩主をつとめた。直明は信之のあとを受けて新田開発を進めた。1701年(元禄14年)に家督を長男の直常に譲って隠居すると、1721年(享保6年)に病没した。享年66。 |
1701年(元禄14年) | 松平直常 なおつね |
松平直明の長男。父・直明の隠居に伴い家督を相続した。幕府から大和川改修工事を命ぜられ、さらに1711年(正徳元年)には朝鮮通信使接待役に任ぜられた。直常は学問好きで新井白石らと親交があり、儒学者・梁田蛻巌(やなだぜいがん)を藩儒として招いて郷校「景徳館」を創設した。1743年(寛保3年)に隠居すると、1744年(延享元年)に病没した。享年66。 | |
1743年(寛保3年) | 松平直純 なおずみ |
松平直常の長男。1743年(寛保3年)、直常の隠居に伴い家督を相続する。慢性的に藩の財政難はつづき、家臣の俸禄を減給したり、藩札を発行して健全化を試みた。1764年(明和元年)に病没。享年38。 | |
1764年(明和元年) | 松平直泰 なおひろ |
松平直純の長男。1764年(明和元年)、直純が病没したため家督を継ぐ。1784年(天明4年)に隠居。1804年(享和3年)に病没。享年56。 | |
1784年(天明4年) | 松平直之 なおゆき |
松平直泰の長男。1784年(天明4年)、父の隠居により家督を継ぐ。藩主となって一年半後の1786年(天明6年)、江戸藩邸において20歳の若さで死去。 | |
1786年(天明6年) | 松平直周 なおちか |
松平直泰の三男。兄・直之の死去に伴い家督を継ぐ。1796年(寛政8年)、幕府から濃尾三川の改修工事を命じられると藩の財政は窮乏し、領内の豪商・豪農から借財をおこない、そのかわりに苗字帯刀を許可した。1816年(文化13年)に隠居して、家督を次男の斉韶に譲る。 | |
1816年(文化13年) | 松平斉韶 なりつぐ |
松平直周の次男。初名は「直韶」だったが、将軍・徳川家斉から偏諱を受けて「斉韶」に改名した。元服前の1816年(文化13年)、父の隠居に伴い13歳で家督を相続する。1840年(天保11年)に隠居し、家督を将軍家の養子・斉宜に譲った。 | |
1840年(天保11年) | 松平斉宜 なりこと |
11代将軍・徳川家斉の二十五男。将軍の子が藩主になったことで明石藩は2万石が加増されて8万石になったが、斉宜はさらに10万石への加増を老中らに求め、結果として「10万石格」として扱われた。ただし将軍家からの養子を迎える準備と10万石格という格式を維持するために莫大な費用を要した。1844年(天保15年)、わずか20歳の若さで病死。 | |
1844年(天保15年) | 松平慶憲 よしのり |
松平斉韶の長男。斉宜の死去により、本来の世嗣であった直憲が家督を相続すると、徳川家慶の偏諱を授かり慶憲と改名した。外国船の来航が頻繁になったため、1853年(嘉永6年)に明石海岸に12箇所の砲台を築く。第二次長州征討、鳥羽・伏見の戦いや越後出兵に参陣した。1869年(明治2年)に隠居すると、1897年(明治30年)に死去。享年71。 | |
1869年(明治2年) | 松平直致 なおむね |
松平慶憲の長男。1869年(明治2年)、慶憲の隠居に伴い家督を相続する。版籍奉還により知藩事となるが、その2年後の廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を免官となった。 |